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徳川家康は死後、朝廷より神号「東照大権現」を下賜され、日光東照社に祀られ神となった。後、東照社は東照宮と改称する宣下を受け、朝廷臨時奉幣使が派遣された。
以降、毎年家康の命日の祭礼に「日光例幣使」が派遣されることになった。
「日光例幣使街道」とは、金幣を奉納するために京の勅使が東照宮に向かう際に通った道である。中仙道倉賀野宿(群馬県高崎市)を起点とし、ここより例幣師街道という。楡木宿(栃木県鹿沼市)に至り、今市で日光街道に合流する。楡木から先は壬生街道が合流するので、楡木、今市間は正確には壬生街道(国道293〜121号)だが、一般に例幣使街道と呼ばれてきた。この区間にも日光杉並木が現存する。例幣使街道は往路に用いられ、復路は日光街道、東海道が利用された。日光例幣使は、1647年から明治維新前年の慶応三年1867年まで221年間休むことなく日光に派遣された。 |
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日光東照宮の例大祭(4月17日)に金幣(きんぺい/金(きん)の幣(ぬさ))を奉納するために毎年、朝廷から派遣された使者(勅使)をいう。
元来、例幣使とは、伊勢神宮の神嘗祭(かんなめさい)に、朝廷より幣帛(へいはく)を奉納するために使わされた勅使のこと。
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1.倉賀野宿(群馬県高崎市)
2.玉村宿(群馬県佐波郡玉村町)
3.五料(ごりょう)宿(群馬県佐波郡玉村町)
4.柴宿(群馬県伊勢崎市)
5.境宿(群馬県伊勢崎市)
6.木崎宿(群馬県太田市)
7.太田宿(群馬県太田市)
8.八木宿(栃木県足利市)
9.梁田宿(栃木県足利市)
10.天明宿(栃木県佐野市)
11.犬伏宿(栃木県佐野市)
12.富田宿(栃木県下都賀郡大平町)
13.栃木宿(栃木県栃木市)
14.合戦場(かっせんば)宿(栃木県下都賀郡都賀町)
15.金崎宿(栃木県上都賀郡西方町)
16.楡木宿(栃木県鹿沼市)
17.奈佐原宿(栃木県鹿沼市)
18.鹿沼宿(栃木県鹿沼市)
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19.文挟(ふばさみ)宿(栃木県日光市)
20.板橋宿(栃木県日光市)
21.今市宿(栃木県日光市)
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杉並木寄進碑は小倉(こぐら)の他、日光街道の起点である今市市山口、会津西街道の起点大桑、そして神橋わきにある。碑文には「下野国日光山山菅橋より、同国同郡小倉村・同国河内郡大沢村・同国同郡大桑村に至り、二十余年をへて、路辺の左右並びに山中十余里に杉を植え、もって東照宮に寄進し奉る 慶安元年(1648年)4月17日、従五位下松平右衛門太夫源正綱」とある。この碑は松平正綱の嫡男正信が建立した。寄進碑は杉並木とともに特別史跡に指定されている。 |
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正綱は1576年(天正4年)、代官大河内金兵衛秀綱の次男として遠江国で生まれた。12歳のときに家康の命により長沢松平家の養子となり、17歳から側近として家康に仕えている。その後、寛永2年(1625年)、50歳のときに相模玉縄2万2千石の大名となった。この年、正綱は主君への報恩として、20年間にわたって紀州熊野の杉苗20万本の中から2万4300本を街道に植樹し、東照宮に寄進した。それが現在の杉並木である。正綱の墓は埼玉県新座市の平林寺にある。 |
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杉並木の杉をみると、番号が書かれたアルミ板が打ち付けられている。これは東照宮が胸高(約1.2メートル)、直径30センチメートル以上の杉に通し番号を付け、「並木杉台帳」に記録しているためだそうだ。平成11年末現在、1万2850本が登録されています。最近では、年平均100〜50本ほどの杉が消えている。正綱、正信親子が植栽した数は、鈴木丙馬故宇都宮大学教授によれば、2万4千300本と推定されている。(下野新聞社『日光杉並木』より) |
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例幣使の格式は高く、一行が通ると、大きな大名行列でも通行を遠慮しなければならず、また沿道の住民は土下座して一行を見送ったといわれています。ただし、一行50人のほとんどが魚屋、八百屋など公家に出入りしていた商人だったようだ。
一行の随員の中には、その権威を悪用する不心得者が少なからずいた。とりわけ中山道から離れ日光例幣使道に入るとその増長振りは目を覆うほどと謂われている。
彼らは駕籠の中から、担いでいる人足に、「相談せんか、相談せんか。」と声をかける。金をよこせという意味だ。この時、人足が金を出さないと、激しく駕籠をゆすって催促し、わざと転がり落ちて、「無礼者、このままではすまさぬぞ。」と脅したと言われている。こうした場合、村役人が詫びて金を渡してその場をおさめることになる。これが「強請る(ゆする)」の語源となったといわれている。
宿場や沿道の民家は雨戸を閉め、節穴は紙で目張りをすることが命じられ、宿場は「昵懇金(じっこんきん)」を用意してユスリに対処した。
一行は江戸に出ると、日光より持ち帰った前年の金幣を細かく刻み江戸表の大名屋敷に送りつけ金品を要求する始末だった。 |
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